生きるとは

哲 学

生きるとは何でしょうか?

野生の世界で考えてみましょう。

動物は生きるために食べ物を確保し、危険を回避します。

何十キロと食べ物を探し移動するためには「持久力」が必要です。
獲物を捉える時や危険を回避する時には、「瞬発力」を要求されます。
逃げるため、追いかけるためには直線だけでなく、全方向に「俊敏」に動かなくてはなりません。

つまり「生き抜くため」には、あらゆる力を駆使して、全力でカラダを動かさなければ生き抜くことはできません。

自然界で動けなくなれば、食べるものを探せず、捕食することもできず、逃げることもできず食べられてしまいます。

「感覚」も必要です。
野生の世界でスマホを見ながら歩いていたり、イヤホンをつけて音楽を聴きながら歩いていたらどうなるでしょうか?

餌として狙われ、瞬く間に食べられてしまうことでしょう。
野生の世界でなくても、治安の悪い国であれば、窃盗や誘拐の危険性が高まります。

でもこの光景、駅や街中でよく見かけますよね?

「カラダを動かす」「五感を働かせる」ことは、自然界で生きるために必須の条件です。

しかし、利便性が発達した現代社会においては、カラダを動かす機会がどんどん奪われています。

過剰とも思える「香り」をアピールした商品で嗅覚は麻痺し、スマホと溢れる音で視覚聴覚が奪われます。

濃い味付けや化学調味料の味で味覚は鈍麻し、硬いアスファルトやコンクリート、金属が多い環境の都市部では、単一の感触しか得ることができません。

カラダの機能や感覚は、使っていくことで向上し、磨かれていきます。

自衛隊で勤務時、夜間の山岳移動訓練をしたことがありました。
ライトなどの明かりは使用せず、GPSも使いません。

登山道は歩かず、等高線が記された地図を渡され、目的地まで行けるルートを自分で考えます。

自分が何歩でどのくらい進めるのか、坂道や岩場ではどう変わるのか。
何歩歩いたら、地図のどの辺りまで行けるのか。

上っているのか下っているのか、尾根を進んでいるのか沢に向かっているのか。
地形の変化を足裏で感じ、感じ取った情報と地図の情報を照らし合わせ、今どのあたりを歩いているのかを想定する。

わずかな月明かりと足裏の感覚とコンパスだけで暗闇の山中を進み、地図はわずかな光量の赤色灯で確認します。

草をかき分ける音、枝が折れる音、鳴き声などに耳をすまし、野生動物の接近を警戒し、危険を回避するために、くしゃみなど自然界にない音を発することはできません。


生きる
とは、生き抜くために備える力を生かし、生き抜くことです。

人も含めた動物の生体機能は、生きるための活動をすることで、その機能が維持されるように設計されています。

不眠・冷え・血流やリンパの循環低下・慢性疲労・首や肩こり、ストレス・・・

現代社会に蔓延する心身の不調は、カラダや五感を使わないことによる生命維持機能の低下によるもので、体調が悪くなっていくのは「自然の理」といえるでしょう。

スマホなどに感覚を奪われたまま歩くことなどは、「生き抜く力」を低下させており、生きることそのものが形骸化されてしまっているように思えて仕方ありません。

生命力の低下は繁殖力の低下にも繋がります。現代の日本では何が起きているでしょうか?

人も動物であり自然界の住人。
「力」は使わなければ後退し、年齢に関係なく衰えていきます。

カラダを動かすことで得られる感覚刺激が減少すれば、脳の機能も低下します。

高齢者施設で、過剰な介護を受けた方々がどうなっていくのか。
介護現場で働いた経験のある方であればわかるでしょう。

技術の進歩は生活に様々な恩恵を与えてくれています。
人は二足歩行になり、手を自由に使えるようになったことで、文明を築き上げてきました。

しかし、生きるために行うべきことの原理原則は変わりません。
そして自然には必ず+とーのエネルギーが同量存在します。

便利になったからと、カラダを使うことを止め、感覚を刺激する楽しさを忘れれば、文明の発達とともに生まれた負のエネルギーが自分に返ってくるでしょう。

現代社会で何が起きているか。何を大切にすれば良いか。どう生きるべきか。
生きる原点を見直せば、案外わかるかもしれません。

関連記事